善導寺ギャラリー

個性が息づく旧町名

浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺この辺りは昔、聖福寺の池があったことから蓮池町と呼ばれていました。ここにお寺が固まってきたのは、秀吉が博多町割をした頃でございます。石堂辺りは、昔は入海だったのです。そして、本来御笠川の本流というのは、鐘紡の工場跡地の方にありました。現在の博多駅付近から御供所小学校辺りまで湿地帯で、秀吉が町割をして家を建てても、雨が降るとすぐに浸ってしまうので、御笠川の流れをまっすぐに一新してしまい、その裏にお寺を固めたといわれています。

また、代々福岡城の城主は元寇の仕返しを非常に恐れていたそうです。よく見てみますと、藤崎あたりから、西公園、今川、長浜、昭和通り、石堂大橋辺りまでの浜側はお寺がずっと並んでおります。結局、お寺というのは広くて、大勢寝起きができるだけでなく、お寺を創ることによって墓地ができるわけです。つまり、いざという時にには墓石を積み上げ石垣を造って、元寇の襲来から福岡城を守るために、お寺と固められたという話も聞いております。

浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺旧町名で寺中町とありましたが、これは聖福寺の境内の中に町が出来たことから付けられました。西門橋というのも聖福寺の西にありました。昔の大博劇場の先は波打ち際になっておりまして、あの辺りが魚町。ひと筋ずれて路地を上がったところが、船桶や水桶を作る職人が集まった桶屋町。それから名前が呼べずに聞かれる名前が「御供所町」や「馬出」。「おんそなえどころ」、「うまだし」と呼ばれるので、「ごくしょ」「まいだし」とお応えしますと、「伯方の町名は難しいのが多いですね」とよく言われます。

浄土宗 光明山悟真院 筑前博多 善導寺この御供所町というのも、周辺にたくさんの寺社があり、花や菓子などのお供え物を扱う商売をしておられた方が多く集まった門前町ということで付けられたようであります。旧博多駅前の矢倉門町には、消防署や見張り台があり、小山町はこんもりした丘だったといわれ、このように土地柄に因んだ名前が付けられておりました。秀吉は町割をする中で、まず小路、堂、流れ、ばん、口が付いた町づくりを行っています。こんな形で、昔の町名と町の歴史を合わせみると、いろいろと面白いことが分かってくるのでございます。

ここ善導寺の表門の右側にも、市電の敷石に旧町名「蓮池町」と刻まれて建っております。やはり博多の歴史を残す名前を懐かしく思い、大事にしたいと考えております。
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